調査経緯

静御前の墓について、地元の方に言い伝えを聞かせていただき、阿東町誌を調べていくうちに奥阿武郡宰判風土注進案という資料に出会うことになりました。

奥阿武郡宰判風土注進案徳佐村とは天保14年(1843年) (12代将軍・徳川家慶の時代)に土地(田畑・溜池・水路など)の調査を行った村史編纂資料として大変貴重な文献で、山口県文書館に保管されていて、それを昭和21年に書き写した風土注進案の徳佐村史が阿東町に保管されています。

 その徳佐村史第1巻248ペ−ジの中に徳佐片山に「そうけあん堤池水面貳拾歩」があると記載があり、静御前が逃れて住んだとされる庵寺の名がそうけ(笊笥)庵というのも、静御前を当地に結びつけざるを得ません。

片山集落で、この墓が静御前の墓と言い伝えられているのも、庵寺がその近くにあったと言い伝えられているのも、何かしら因果関係があるとしか思えないのです。

また、この事は平成7年に阿東町教育委員会で編集された阿東町石造物文化財の10ペ−ジに記載されています。

 庵寺や静御前の墓とされる宝篋印塔や五輪塔が土砂崩れ(山津波)のためになくなり、宝篋印塔や五輪塔は一ヵ所に集められ、確かなことが分らないのが残念でなりません。

しかし、お墓を整備し、願成就温泉にブロンズ像を建立することで、阿東町また山口県の貴重な財産として大切に保存し、子供や孫に伝えることが出来れば、近い将来、その疑問が、晴れる時が来ると信じ願っています。