阿東町で行われている神楽舞は石州舞とチャンチキ舞の2種あり、須賀社の厄神舞はチャンチキ舞に属している。
ここの厄神舞は毎年須賀社の秋季例祭日(旧暦10月初めの子(ね)と丑(うし)の日)の初日の夜8時ごろから行われる。
採物は左手に太刀(たち)、右手に鈴をもつ。頭には笠の神といって神官にお祓いをしてもらった五色の色紙をつけた烏帽子を被り、直衣(のうし)に袴をつけた舞人二人が舞殿で五調子の太鼓と笛に合わせて舞うのである。舞が進むと観衆は「エーマイノー、エーマイノー、チャンチキマイノ、エーマイノ」と囃(はや)したてる。そのうちに楽と囃しと舞が三者一体となってエスカレートし、遂に舞人は神憑り的に狂乱状態となって舞殿から観衆の中にとびおり、神殿めざして走ろうとする。それを観衆はとりおさえ、頭上に御幣をのせて控の間に担ぎこんで休ませ正気に戻らせる。こうした舞が、12回繰りかえされて終了する。この狂乱状態になることを「ウツリ」といって神の所作だとされる。
この舞は単調ではあるが素朴的な民俗神楽舞として、近隣はむろんのこと全国的に識者の間で注目されている。
この舞の発祥は古く、平安時代にさかのぼる。長元6年(1033)の夏、この地方は酷暑の日が2ヶ月以上も続き、稲は枯死してしまった。その上、追い打ちをかけるように原因不明の悪疫が流行して里人は度重なる苦しみに喘いだ。
そんな或日のこと、東天俄かに曇り、ものすごい雷鳴が轟き、稲妻が走って大雨となった。激しい雨足を呆然と眺めていた勘蔵という老人は、西方の空にピカリと光って山上に降りてくる物を見かけた。もしかしたら、神の救いの前兆かと里人達と相談し、恐る恐る山上に登ってみると、そこに二振の小太刀があった。里人達は小太刀をご神体とし、「素盞鳴命(すさのうのみこと)」を祭神として社を建立し、神楽舞を奉納した。すると、流行していた悪疫もやみ、明るい村に蘇った。爾来、毎年やむことなく舞が続けられている。
上記の由緒でもわかるように、この舞は厄除けの願舞で氏子や信者の立願(りゅうがん)によって舞うものといわれるが、立願した者には後日烏帽子につけた色紙が送られ、立願の叶えられたことの報告にかえられる。 |