文久3年8月18日(1863)の政変により、長州藩は皇居警備の任を解かれ、尊皇攘夷派の公卿七卿と共に長州に下った。(七卿の都落ちという。)
七卿は最初、防府の招賢閣にあったが、その中の沢宣嘉は筑前の平野国臣の勧めにより、脱して但馬(兵庫県)の生野(いくの)に討幕の挙兵をしたが破れて、讃岐や伊予に潜伏の後、再び長州に入った。しかし、他の六卿と合することは叶わず、生雲の庄屋に幽居した。
翌元治元年は前年に引き続いて長州藩は激動多難な年であった。6月に池田屋の変、7月に蛤御門の変に続いて毛利藩追討の勅命、8月には4ヶ国連合艦隊の下関襲来など難局に立たされた。
このような時節、沢宣嘉は憂国の至情止み難く、生雲八幡宮に参籠して願文(祝詞(のりと)形式)を捧げて国難の打開と七卿の復帰、藩論の統一などを祈願した。
この願文は当時の公卿、志士達の世相の見方や考え方、気概を知ることができる資料として重要である。 |