山口市阿東の観どころ情報

名勝 長門峡

長門峡

 長門峡は山口市阿東篠目地区中央御堂原より阿武川の本流と篠目川との合流点である。丁字川から下流は、石英斑岩の山を激しく浸食して峡谷となり、長門峡の美しい景勝を作り上げた。
 江戸時代の後期、吉田松陰の松下村塾記に「川の源 渓間数受十里、人能く窮むるなかれ。」と記されており、これは長門峡を指しているといわれ、渓谷に道がない時代、風聞によって峡谷の美しさをのべたものと考えられる。
 明治41年、山口の河北勘七が、阿武川水力発電計画のため峡谷に入り、その技術者が峡内の写真を撮影して人々に紹介している。
 同年夏、イギリス人エドワード・ガントレットが長門峡を訪れ、景観の美しさに感動し、その後数年間、御堂原に避暑をして峡内の探勝に耽った。大正元年に山口県の教育会で講演し、長門峡の美しさを耶馬渓以上だと激賞し、開発の必要性を説いた。そして「長門耶馬渓」と命名した。
 その後大正9年、高島北海画伯、山根武亮将軍、岡村勇二阿武郡長などが長門峡を探勝。画伯によって『長門峡』と命名され、関係町村長などと協議し長門峡保勝会を設立した。高島画伯は長門峡を描いて一枚100円(当時サラリーマンの月給30円)で売却し、これによって得た17,600円余を探勝道の工事費として保勝会に寄付し翌年には探勝道が完成している。
 大正12年3月、史跡名勝天然記念物保存法によって、内務省から名勝として指定を受け、昭和36年には県立自然公園として山口県の指定を受けた。
 長門峡の美しさは、千変万化する奇岩とそびえ立つ懸崖絶壁の怪石の妙と、澄み切った渓流が岩間に砕け、瀬となり、瀑や淵となる渓谷の風致、更に色彩を添える樹々の美しさの調和にある。その美しさは、四季を通じて景趣を変えるもので、新緑、深緑、紅葉、更には寂漠とした冬の景勝と、幽遠とも言える景観は興趣が尽きない。
 峡中の景勝には、おもむきによってそれぞれに名が冠せられ、丁字川、馬の瀬、和留瀬、碁石岩、切籠、重并岩、千瀑洞口、榧ヶ淵、舟入り、大谷淵、獺淵、佳景淵、広滑、竜宮淵等々枚挙に限りなく存している。
 また本流ばかりでなく、支流の生雲渓、金剛渓にも風致が及んでいる。